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聞即信
正信偈には、
 弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
と難中の難であると教えられているにもかかわらず、
 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
とあります。どちらも法徳を称えられた御言葉と拝します。

 聖道の教えは、「××せず○○しなさい。そうすれば□□と悟りが得られる」というもので、
道理がわかりやすく、いざ行うとなれば難行でありとてもまともに行ずることができません。
 船に乗ってゆく易行水道の浄土門は、信じた一念にそのまま救うという、とても信じられない法です。
 なぜ信じられないかといえば、私の道理からいえば道理はずれの道理を、私の道理で理解しようとするからです。
 浄土門は、これを理解してから信じにかかるのではありませんで、聞いたのが信となり即得往生となる、すべてをおまかせした有難い法であります。故に理解を先に求めるのは浄土の教えではありません。理解できないままのお助けです。理解できないお助けを理解してからのお助けではありません。あくまで聞即信です。
 分かってからのお助けであれば救われませんでしたし、分かったのが救われたのでもありません。
 南無阿弥陀仏のいわれを聞かせて頂いてみれば、信ぜしめられるのです。
 信じられないのは、聞いていないのです。
 信じられない原因を探って、あぁこれが原因かとわかってスッキリしてから聞きにかかるのでなく、
南無阿弥陀仏のいわれを慮りなく聞くのです。
 スッキリしているのは南無阿弥陀仏であって、私の理解がスッキリしたのではありません。
 私がスッキリ分かってからの救いは、浄土門ではありません。
 聞く一念で救うという本願でなければ、私は永遠に流転輪廻を繰り返すのみでした。
 聞即信とはなんと有難いことでしょう。


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弥陀の救い 加茂仰順師

問 聞と信の関係をさらに詳しく承りたく存じます。
答 一般仏教では聞と信は別とします。つまり聞はこの耳根を依りどころとした耳識の作用であり、信は意根を依りどころとした意識の作用とします。真宗では聞と信は別々のものとはいたしません。名号のいわれを聞き得て、その疑心のないいわれがわが胸にとどけば、心中は疑心のない有様になりますから、聞とも信ともいうのです。さらに云えば聞にも信とならない聞と、信を成じている聞とがあります。信とならない間は不如実の聞で、信前位の聞です。しかしこれもかならずやお聞かせにあづかれば、如実の聞となります。第十八願の成就文の聞は如実の聞で、聞のままとりもなおさず信です。この信は聞より得たものです。

問 いくら聞いても如実の聞になり得ないのはなぜでしょうか

答 まず言えますことは、宿善が到来しないからです。しかしまじめに熱心に仰せ通りに聞いてゆきますれば、ついにはしぶとい私の心の中に入り満ちて下さることになります。聞くということを除けにして信はなく、よくよく聞き得たのが信です。
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 加茂師のなんとも鮮烈なおこたえです。
 宿善ありがたし。弥陀の善巧方便を尊く拝し、念仏申すべし。南無阿弥陀仏。
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有難く何度も読ませていただいています。

さらに「聞即信」について、一代記にたずねますと、宿善も遅速あって已今当の往生があるが、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと勧めて下さいます。

『陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。』

そして、信をとることについて、

『前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。』

まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず(往生したいと願い己をたのむ人は仏に成らず)、弥陀をたのむ人は仏に成る(往生をまかせ弥陀をたのむ人は仏に成る)と仰せられます。

このことから、善知識は「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と教えられ、

『聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。』

御慈悲によって信がえられると聞かせていただきました。

『「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。』

親鸞聖人の「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」をかみしめたいと思います。南無阿弥陀仏。
ZhengQing | URL | 2010/02/05/Fri 22:47 [編集]
質問です
問 いくら聞いても如実の聞になり得ないのはなぜでしょうか

答 まず言えますことは、宿善が到来しないからです。しかしまじめに熱心に仰せ通りに聞いてゆきますれば、ついにはしぶとい私の心の中に入り満ちて下さることになります。聞くということを除けにして信はなく、よくよく聞き得たのが信です。
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凡夫には打つ手がなく、阿弥陀仏をたのむしかないわけですが、上記の答えにあるように熱心に六字のおいわれを聞いていくしかないのでしょうか?
尊き法を仰いでいくしかないのでしょうか?
音色 | URL | 2010/06/21/Mon 09:45 [編集]
>音色 様
仰るとおりです。が、熱心に六字のおいわれを聞くとは、私のなんとかなりたいという熱心な願いを阿弥陀仏に発しながら聞くことではありません。
しぶとい私の心の中に入り満ちて下さる阿弥陀仏の大悲心をただ聞くのみです。
聞いてどうにかなるのではありません。
ただ弥陀の願心が私に惜しみなくかけられていることを知らされるのです。

十劫前から熱心なのは阿弥陀仏です。
私は今それをちょっと熱心に聞いている気になったりしているだけです。
YGM | URL | 2010/06/23/Wed 08:21 [編集]
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