信心は助かる証拠を握ることと思いきや
逆に助けるぞの証拠につかまりました
凡夫の疑いは信じたらとれるのではなく
本願のお名号に取られるのです
少しも自力のクサミが感じられない言葉です。
こちらで信じたのでなく、ただ疑い取られた。
取られたと言っても、私の煩悩の何かが無くなったのでなく、
ただ阿弥陀仏の名告りが聞こえただけ。
人間の名のりが聞こえてもなんともありませんが、
仏の名告りが届いたら安心せざるを得ません。
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決定した、間違いのない、如来様のお助けの聞こえたのが、信の一念でございます。
『聴聞で かためた領解 もぎとられ みやげ持たずに 帰る親里』
と申されたお方がございますが、まことに尊いお味わいでございます。
当流の信心とは、名号の救いのはたらきが、私の上にいきいきとあらわれ給うたすがたでございます。先手のかかった名号の救いを、聞信させて頂くのでございます。弥陀のお助けの、まちがいないことが、至り届いたこころでございます。
私が長い間、お育て頂いたから、疑いが無くなり、間違いないという領解ができたのではございません。必ず救うとの弥陀の御心が、至り届いて下されまして、必ず救われるという領解のできたのでございまする。
つまり、光によって光を見せられておるのでございます。
どこまでも、弥陀の知り抜き給うた、この私を救うために起こされたのが、弥陀の御本願でございます。そして、私の罪業にもさまたげられることなく、善をも要せず、一切凡小善悪を一味平等に転じ変えて、救うてくださる御本願でございます。
『往生は、と 父に問われて ほほみぬ 弥陀にまかせて わすれたりけり』
と、その臨終のときに臨んで、ほほんで父にこたえたという若い方もいられたと聞いておりまするが、まことに尊いおこころ持ちでございます。
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真実の信心が、真実であるか否かは、分別にとらわれた不実の心ではわかる筈がございません。真実であるかどうかは、真実の心でしか分かりません。
私の視線が光にたどりついて“明るい”と判断するのでなく、明るい光が至り届いて明るいと感ずるのです。
光によって光をみせられておるのです、とはこういうことだと思います。
聴聞で固めた領解もぎとられ・・・
・・・弥陀にまかせて わすれたりけり
自分の視線には用事がなくなり、光によって光をみせられている、味わい深いお歌でございます。
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
(御一代記聞書(193)
石は私です。水は私の聞き心、ではありません。水は阿弥陀仏の願力です。
石はただ水に打たれているばかりで何もしていません。
水のところへ動いて行ったのでもありません。打たれ方を工夫してもいません。
ですから水よく石を穿つとは、私が一生懸命聞き抜いたことではないのであります。
この一代記のお言葉は、聴聞の仕方を教えられたものではありません。弥陀の願力がかけられてあることを教えておられるお言葉です。
「南無阿弥陀仏とはわれらの往生のさだまりたる証拠なり」ですから、加茂師の言葉を借りれば、
聞いて解決ではない。解決のできている証拠が六字です。出来てある、定まってある証拠をつきつけられているのです。
聴聞とはこの証拠をつきつけられているありさまでしょう。
毎日行われている常例布教を目当てに聞きに行きましたら、たまたま春季の彼岸会でした。
何十人ものお坊さんが集まり、楽器の演奏に合わせて盛大に法要を勤めておられました。
そのあと豊島學由師による法座となりました。
題は「阿弥陀さまとお釈迦さま」。
分かりやすく、おもしろく、親しみやすいお話ぶりで、大変感激しました。しかし話がいざ信の核心に触れると、声をからして力強く念仏の尊さを説いておられました。
豊島師は過去に耳の手術をしたことがあるとのこと。脳の近くまでメスをいれる手術だったそうです。手術が終わり暫くすると医者が、まだ麻酔の抜けきってない豊島氏に何度も聞こえますか?と声を掛けられたそうです。一生懸命手術したのも医者ですが、一生懸命聞こえますかと呼びかけられて、「聞こえてくれ」「助かってくれ」と願われているのも医者です。当人は麻酔が掛かってぼやっと眠っているだけです。
医者が大きな声で呼びかけているのに、当人はぼぉーっとした中なにか聞こえたのか、ちぃさな返事をしたそうです。自分は覚えていないが、周りで看ていた家族たちいわく、か細い声で「・・・はぃ・・・」てなもんだったそうです。
まぁちょっと大きな声で「はい!聞こえました!!」と言えたらどうだと思いますが、そんなもんだったそうです。
「帰命は本願召喚の勅命なり」と行巻にありますが、助けるぞとよび続けられてあることを聞いて、はいと聞かなければ手術が成功していても完治しておりません。このお彼岸会が、はいと聞くご縁になって頂きたいとのことでありました。
本願寺では、「なにしろ死んだら極楽」という話しかないなどと聞いておりましたが、全く違っておりました。
「後生は如何!?」と切に問われ、本願召喚の勅命を聞いて信決定し念仏すべしとの尊いご説法でありました。
疑い無い力の抜けた妙味を味わせて頂けましたので、豊島師もきっと私と同じであろうと思うとなんとも不思議でありますし、初めてのご縁でしたが懐かしく感じました。
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親鸞<信>-本願の念仏- 加茂仰順
真宗のかなめは、安心であります。安心とは何でしょうか。
安心とは、私が救われることであります。助けられたことであります。
真宗では、そのことを「信心をとる」とか、「信心獲得」とか申されています。
「信心をとる」とは、計らい心の捨たったことであります。
「自力の心をすてて」、「弥陀をたのんだ」のであります。そのことを一口に言えば、真宗は、まちがいのないお助けのえられたのであります。如来に助けられたのであります。
人はみな、親心を頂こうと思うて苦心しますが、それは方角ちがいです。頂くことに苦心するのではありません。苦心されている親心を聞かせていただくのであります。
頂くということは、物をもらうようなことではありません。聴聞のところに、親心の全体があらわれて下さったのであります。
なぜかと言えば、弥陀の正覚のそのままが、私を救うためであるからです。
弥陀の正覚のありだけが、私の救い(往生)であります。
つまり仏智のままが宿ったのが安心であります。その大悲の宿って出るのが念仏です。
大悲がいつも通って下さるからそれを味わって念仏するのであります。
大悲のあらわれたのが念仏です。
如来に生かされているいっぱいが如来の名号であります。
名号をいただくのであると言うても、名号を私が所有するのではありません。
名号のはたらきに、わが身全体が生かされるのであります。
忘れて暮らす私に ナモアミダブツが先に出て
思い出すときは いつでもあとよ
私しゃつまらん あとばかり
私の心がさきならだめよ 親の慈悲がさきにある
親の慈悲がさきばかり 私の返事はあとばかり
(才市)
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名号が欲しいという想いがあってそれに阿弥陀仏が応えられるのではありません。
阿弥陀仏の助けるの一方的な親心に生かされたのです。
ですから阿弥陀仏が常に先なのです。
常に先なのであって、信心獲得の最初だけ先手、それ以後は私の番手なのでもありません。
名号を頂いて所有したのならば、私が先手となるやもしれませんが、
思い出すときは いつでもあとよ 私しゃつまらん あとばかり で、
信を仰げば常に先手の慈悲が味わわれます。
母親に抱かれている赤ん坊の笑顔は、親の笑顔のうつったものです。
赤ん坊が親心を取得したのではなく、母の親心が笑顔となって私に笑顔があらわれたのです。
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
と難中の難であると教えられているにもかかわらず、
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
とあります。どちらも法徳を称えられた御言葉と拝します。
聖道の教えは、「××せず○○しなさい。そうすれば□□と悟りが得られる」というもので、
道理がわかりやすく、いざ行うとなれば難行でありとてもまともに行ずることができません。
船に乗ってゆく易行水道の浄土門は、信じた一念にそのまま救うという、とても信じられない法です。
なぜ信じられないかといえば、私の道理からいえば道理はずれの道理を、私の道理で理解しようとするからです。
浄土門は、これを理解してから信じにかかるのではありませんで、聞いたのが信となり即得往生となる、すべてをおまかせした有難い法であります。故に理解を先に求めるのは浄土の教えではありません。理解できないままのお助けです。理解できないお助けを理解してからのお助けではありません。あくまで聞即信です。
分かってからのお助けであれば救われませんでしたし、分かったのが救われたのでもありません。
南無阿弥陀仏のいわれを聞かせて頂いてみれば、信ぜしめられるのです。
信じられないのは、聞いていないのです。
信じられない原因を探って、あぁこれが原因かとわかってスッキリしてから聞きにかかるのでなく、
南無阿弥陀仏のいわれを慮りなく聞くのです。
スッキリしているのは南無阿弥陀仏であって、私の理解がスッキリしたのではありません。
私がスッキリ分かってからの救いは、浄土門ではありません。
聞く一念で救うという本願でなければ、私は永遠に流転輪廻を繰り返すのみでした。
聞即信とはなんと有難いことでしょう。
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弥陀の救い 加茂仰順師
問 聞と信の関係をさらに詳しく承りたく存じます。
答 一般仏教では聞と信は別とします。つまり聞はこの耳根を依りどころとした耳識の作用であり、信は意根を依りどころとした意識の作用とします。真宗では聞と信は別々のものとはいたしません。名号のいわれを聞き得て、その疑心のないいわれがわが胸にとどけば、心中は疑心のない有様になりますから、聞とも信ともいうのです。さらに云えば聞にも信とならない聞と、信を成じている聞とがあります。信とならない間は不如実の聞で、信前位の聞です。しかしこれもかならずやお聞かせにあづかれば、如実の聞となります。第十八願の成就文の聞は如実の聞で、聞のままとりもなおさず信です。この信は聞より得たものです。
問 いくら聞いても如実の聞になり得ないのはなぜでしょうか
答 まず言えますことは、宿善が到来しないからです。しかしまじめに熱心に仰せ通りに聞いてゆきますれば、ついにはしぶとい私の心の中に入り満ちて下さることになります。聞くということを除けにして信はなく、よくよく聞き得たのが信です。
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加茂師のなんとも鮮烈なおこたえです。
宿善ありがたし。弥陀の善巧方便を尊く拝し、念仏申すべし。南無阿弥陀仏。
以下に抜粋します。
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月夜の綺麗な夜に、川面に月が映っていました。
それを見た猿のボスが、家来の猿たちに水面に映った月を持ってくるように命じました。猿たちは、川に入り手で水面に映った月を一生懸命すくおうとしますが、月を手に持つことはできませんでした。困っていたところ、一匹の猿が人間の家の裏においてある水桶に映った月を見つけました。
「川だけでなくこんなところにも月があるのか、ついに月を捕まえたぞ」
こう思った猿は、水桶を抱えてボスのいる巣穴にはいりました。
「ボス、ついに月をつかまえました。」
「そうか、じゃあみせてみろ」
「このとおりです………あれ?ないぞ」
猿が水桶をのぞくと、水面に映っていたはずの月がありませんでした。
水面に月が映ったといっても、月そのものが水中に沈んでいるのではありません。
南無阿弥陀仏の働きが私の心に映れたことを「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」といわれました。
常に働きかける南無阿弥陀仏の呼び声を、私が聞き続けているのが信心の姿です。
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分かった!これが南無阿弥陀仏だ!となるのではありません。
そのような自力いっぱいいっぱいで固めた信心は、やがて崩れてしまいます。
桶の水を掻き回して探していると、水面の波紋が月のように見えることがあるかもしれません。
しかしながらそれはやがて崩れてしまう妄念です。
桶の中に手を入れて月を探しまわっても、その手が邪魔で月が水に映りません。
月の光は平等にどんな水にも映ろうと降り注がれておりますのに、、
それをつかもうとするその手が邪魔だったのでした。
弥陀の救い 加茂仰順師 より抜粋 (2010.1.16の記事の続き)
問 ぼんやりと聞くのも駄目なら、真剣に聞くことも駄目ということになりますね。そしたらどうあるべきですか。
答 ぼんやりの方は説明はいりませんと思いますが、真剣の方はいかにもその通りともうしたいところです。しかし、その裏は、ものにしようとする心でありますからいけないのです。なろうとするのです。私たちは如来のたしかなことと共に、こちらのたしかなことの二つが揃っていないとさびしいのです。これでまちがいないというものがないとさびしいのです。しかしそれが出来たらあきません。もう一つ、こちらがたしかになりたい。なることではないことは分かっていても、それを引っぱりこみたいのが私です。なぜそうなるかと申せば、六字を遊びもの、ながめものにしているからです。真剣に求めて、何か一つの心境が把めたら、やれやれここまで来たといいますが、それこそ邪見驕慢の絶頂です。とにもかくにも、六字をながめものにしたら、こちらが仕事をすることになります。六字の仕事、親の仕事、本願の仕事であります。聞いてこちらがたしかになったのではありません。まちがいない法が先に来ていますから、私はあとの祭りです。計らいは駄目だと知りつつも、こちらがはたらきよるのですが、あとの祭りをしらせていただくのです。
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加茂師の尊いお言葉に叱られた思いが致しました。
邪見驕慢の絶頂で胡坐をかいて聴聞をおろそかにしていれば、六字を遊びものにしてしまいます。
『あとの祭り』、絶妙な言葉をあてられて弥陀の救いの有り難さを教えて下さっています。
先手の御本願。ですから私は手遅れ。計らいようがありません。
峠を挟んで二つの村があった。片方の村にある禅宗の寺の前を通り過ぎて、お婆さんが峠の方へ向かってゆく。
毎日毎朝通り過ぎて行くので、禅宗の住職が気になって、
住 職 :「お婆さん、毎朝どちらへ向かわれているのですか?」
お婆さん :「向こうの村のお寺に行っておるのです」
住 職 :「向こうの村のお寺といえば、浄土真宗のお寺ですね」
お婆さん :「そうでございます」
住 職 :「すると弥陀一仏ですな?」
お婆さん :「はい。そうでございます」
禅宗の住職は、わざわざこの寺を通り越してまで浄土真宗の寺へ参っていることが気になったのか、「阿弥陀経というお経には、西方十万億の仏土を越えたところに世界があって、そこを極楽という。そこに仏がおられて、阿弥陀と号される。お寺も峠を越えた向こう側だが、仏さんも随分遠いところの阿弥陀さんをたのんでおられるんですね」とお婆さんをからかいました。
するとお婆さんは、「極楽は阿弥陀さんの本籍地でございます」といいました。
住職がどういうことかと尋ねると、お婆さんは、
「現住所はこの私のところです。この通り現にお念仏となって私のところにおられます。南無阿弥陀仏・・・」
これをきいた住職は大変感じ入ったということです。
心は仏のおやどにて 口は仏の出入り口 身体は感謝のうつわなら 手足は仏のつかいなり
と詠った人があるそうです。
「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」の仏説はまことでありますが、このように手取り足取り詳しく教えて聞かせて頂かないとなかなか分からず、果てはすっかり忘れてしまっている毎日です。智恵の無さ、根気の無さ、怠慢は筋金入りの私ですが、聴聞させて頂けばそのまま有り難いところです。
聴聞は本当に大切ですね。
弥陀の救い 加茂仰順師より抜粋
答
蓮如上人は「思案の頂上は五劫思惟にすぎたるはなし」と申されてありますが、どうしたら助かるかは、五劫思惟に聞けということです。助からないという心配は如来がするのです。救われないという心配は本願の心配です。
また救われるという心配も私がするのではありません。みな五劫思惟の内容です。どうしたらよいやらという心配は、如来の心配であって、こちらが気がついたときはこちらが手遅れであったのです。
どんなことをしても、またどうあっても助けずにはおかんというのが四十八願です。とどのつまりが、私が助からないという心配も、助かることの心配も、すべてみな弥陀の側にあるのです。弥陀の心配であります。
「されば南無阿弥陀仏とはわれらの往生のさだまりたる証拠なり」と仰せられてありますように、聞いて解決ではない。解決のできている証拠が六字です。出来てある、定まってある証拠をつきつけられてみれば、何もいうことはありません。こちらの負けです。助かる証拠があがっておれば、こちらは頭があがりません。私の心配は既に先取りされてあるのです。
反対からいえば、本願がいま本願通りにはたらいてあるのです。いわゆる力とは作用のことで、その通りにはたらいてあるすがたが南無阿弥陀仏ということなのです。このようにはたらいて下されてあるので、こちらが負けてしまうのです。六字がはたらけば、こちらは手遅れです。みな親の仕事です。親がはたらいてあれば、こちらは仕事ができませんのです。助かる助からんは親の仕事です。
手遅れであればやりようがありません。助かるものが先にあたえられてあるのです。
問 聞いて解決できないことが分からせて頂きました。聞くという心持がまちがっているわけですね。
答 お聴聞の席へ出ない者は問題外ですが、法席に出ていても眠っている者や、ぼんやり聞いている者はつまりません。それかといって、目を開いて一生懸命に聞いている者も、聞いてものにしようという心持で聞いていましては、いま申しますような手おくれにはなりません。こちらで間違いなくなって、助かろうとしますから、こちらが起きていて六字が眠ってあるのです。六字はあたえられてある法です。私が聞いて、まちがいなくなって助かるのではありません。たとえ五十年聞いても、八十年聞いても、みな無駄になってしまってこそよいのです。ずばりといえば、その無駄を聞くのが法を聞くのです。
こちらが聞いて、まちがいなくなってゆこうとするのが、ついに一切が心配のない身にさせてもらうのです。こちらの仕事がみな一切手おくれであるところの法に遭うのです。こちらはみな置いておくのです。持ち込むものは一切ありません。まちがいないものをこちらにこしらえてゆくのが世間でいう信です。
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心配はすでに先取りされていたのです。それ以上の心配のしようがありません。
私の側からいえば、心配はこれ以下になりようがありません。
こちらは手遅れでやりようがないのに、どうしたらこうしたらもありません。
ましてや、善をしないとわからないのだというのは、裏返せば、善をすれば少しはわかるんだと、
数年数十年の善でもって五劫思惟を計ろうとすることです。それこそ手遅れです。
聞く一つで救われると他力回向を説いて下された親鸞聖人の御恩を知らねばなりません。
誓願不思議を聞信し 弥陀に疑い奪われて
信順無疑と楽になりゃ 求め心はさらになし
あさましあさまし
2010年、幸せに新年を迎えられましたことを、拙いですが歌に詠ませて頂きました。
浮生なる相と人生を憂いておりましたが、人間に生まれたことは、無意味なことではありませんでした。
怠惰な私は、恵まれた環境でなければ、とても法を聞く縁をもてるような者ではなく、
振り返れば、種々の御膳立てがあったことを、如来善知識方に深く感謝申し上げます。
最近聞かせて頂いた加茂仰順師の御説法を紹介します。
加茂師の肉声(CD)で聞かせてもらうと特に深く心に入って参りますが、
抜粋して文章におこさせてもらいました。
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正信偈1 お経の味わい 加茂仰順師より
これに反して、弥陀の救いを疑い、道を歩むことにグズグズして、高ぶりの心を持ち続ける者は、苦しみより苦しみに入り、冥きより冥きに入り、永遠に自分の世界をゆかなければならんのでございます。
聞法に勤しみ、弥陀のお心に触れさせて頂いた者は、煩悩の濁りきった心の中に、弥陀のお心が滲み込んで、障りの深い私たちに、障りのない仏智をお恵み下さるのでございます。
親の愛は子供の要求によって生まれたものではありません。
子供の求める以前に完全な慈愛が成り立っていたのであります。
この慈愛を、子供の方からは、これを他力の恵みと申すのであります。
弥陀が私を救わずにはいられないその慈愛を、頂いてみれば、御名を称えずには、おられないのでございます。
計らいの心から称えるのではありません。
子供が「お父ちゃん」「お母ちゃん」と呼ぶのは、子供の計らいではなく、父母の慈愛が子供の口を突いて出たのであります。
子供から名を呼ばれる父母ほど嬉しいものはありません。
名を呼ばれたことから、親は全ての苦労を忘れてしまうわけでございます。
呼ぶ声と、呼ばれる心とがぴったり、しっくり合うたところが、
尊いお念仏でございます。
私の知っておるその人は、朝起きて仏壇の前へ座りますと、嬉しそうな顔をしまして、
「お母さん、おはようございます」。かように申すのであります。
夜寝る時も、「お母さん、おやすみなさい」。よそへ行くときも、「お母さん、ちょっと出てきます。留守をしておってくださいませよ」と言って、下駄を履いて出掛けて行きまするが、ふっとお念仏が出ます。
すると「お母さん、留守をしていて下さいと申しましたのに、やっぱりついて行きたいかいな。危ないのでついて行ってやろうと言いなさるなら、ついてきておくれ」。
そう言って一緒に出掛け、帰ってくると、お仏壇に向かって、「おおきに。御苦労さんでした。おやすみ」と母親と同じように、阿弥陀さんといつも親密な暮らしをしておられました。
この心でございます。
何も念仏申さずに、阿弥陀様に「お母さん、お母さん」と呼べと言うのではございませんが、その心持ちが大切でございます。
嫁さんが「お母さん」と言うのと、娘が「お母さん」と言うのと同じですが、娘がお母さんと言うのは、娘と母が一つになっておるのでございます。この心持ちでございます。
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嫁と娘の言う「お母さん」に信不信の水際がわかりやすくお話されています。
呼ぶ声と呼ばれる声とが母娘では心が一つですね。
なんとも言えない味わいがあります。
親は呼ばれると兆載永劫の苦労を忘れてしまわれるとは、称名報恩の念仏とは言われますが、まったく申し訳無いことです。
南無阿弥陀仏