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至りて堅き石
 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
 心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
 いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
 ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
 (御一代記聞書(193)


 石は私です。水は私の聞き心、ではありません。水は阿弥陀仏の願力です。
 石はただ水に打たれているばかりで何もしていません。
 水のところへ動いて行ったのでもありません。打たれ方を工夫してもいません。
 ですから水よく石を穿つとは、私が一生懸命聞き抜いたことではないのであります。
 この一代記のお言葉は、聴聞の仕方を教えられたものではありません。弥陀の願力がかけられてあることを教えておられるお言葉です。
 「南無阿弥陀仏とはわれらの往生のさだまりたる証拠なり」ですから、加茂師の言葉を借りれば、
聞いて解決ではない。解決のできている証拠が六字です。出来てある、定まってある証拠をつきつけられているのです。

 聴聞とはこの証拠をつきつけられているありさまでしょう。
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