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あとの祭り
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弥陀の救い 加茂仰順師 より抜粋 (2010.1.16の記事の続き)

問 ぼんやりと聞くのも駄目なら、真剣に聞くことも駄目ということになりますね。そしたらどうあるべきですか。

答 ぼんやりの方は説明はいりませんと思いますが、真剣の方はいかにもその通りともうしたいところです。しかし、その裏は、ものにしようとする心でありますからいけないのです。なろうとするのです。私たちは如来のたしかなことと共に、こちらのたしかなことの二つが揃っていないとさびしいのです。これでまちがいないというものがないとさびしいのです。しかしそれが出来たらあきません。もう一つ、こちらがたしかになりたい。なることではないことは分かっていても、それを引っぱりこみたいのが私です。なぜそうなるかと申せば、六字を遊びもの、ながめものにしているからです。真剣に求めて、何か一つの心境が把めたら、やれやれここまで来たといいますが、それこそ邪見驕慢の絶頂です。とにもかくにも、六字をながめものにしたら、こちらが仕事をすることになります。六字の仕事、親の仕事、本願の仕事であります。聞いてこちらがたしかになったのではありません。まちがいない法が先に来ていますから、私はあとの祭りです。計らいは駄目だと知りつつも、こちらがはたらきよるのですが、あとの祭りをしらせていただくのです。
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加茂師の尊いお言葉に叱られた思いが致しました。
邪見驕慢の絶頂で胡坐をかいて聴聞をおろそかにしていれば、六字を遊びものにしてしまいます。
『あとの祭り』、絶妙な言葉をあてられて弥陀の救いの有り難さを教えて下さっています。
先手の御本願。ですから私は手遅れ。計らいようがありません。
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